何もしたくない(3/15まで無料公開)
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多くの他者に向けて、大きな音を出すことがある。 DJとはつまり音楽を連続的に再生する操作であり、同時に単なる「操作」として捉えた途端に娯楽性を失う複雑な表現方法でもある。この言語化すら余計だ。
クラブカルチャーへの憧れはあるが、いまでもあまり理解できていないと思う。ハウスやドラムンベースの音は好きだが、大きな音が好きなわけではない。30Hzの揺れを耳以外で感知することはできるが、楽しむ方法は未だ知らない。好きになりたいけれど、うるさい。 この文化に対する自分の適正の無さを、準備に取り掛かるごとに思い出す。
なぜ大きな音を出すのか?多くの人を楽しませるため、大きな音が求められる。多くの音楽は大きな音で再生されることを前提としていて、自分の創作物もその文脈を受け継いできた。知らず知らずのうちに。 他人と体験を共有するとは何か。同じものを見て、同じ気持ちになる……ような気になることだろうか。多少の違いには目をつむって、感じたことの共通項だけに目を向けて「よかった」とする、そしてそれ以外は忘れる、ということかもしれない。
わたしはそれが苦手だ。嫌いと言いたいわけではないが、好むことが難しい。 まだ知らない、好きになれるであろう物事は、おそらくまだたくさんある。けれど、嫌いなものを体内に取り込むことは、好きなものを10個失うよりも嫌だ。そうすると「多少の違い」に目をつむることは難しくなる。
大きな音や大きな光は、強制的に「よい」と思わせる力がある。きっと、アルコールなどの薬物にも価値基準を曖昧にする力があって、それらが楽しい時間を形作っている。音楽体験に限らず、多くのエンターテイメントは「思わず『よい』と思ってしまう」体験を意図的に設計しているように見える。
わたしは身を任せることが苦手なのだと思う。身を任せたいけど、できない。「良いと思わせる」ことの重要性はわかるから、作り手としては実践しているつもりだ。でも、自分はなかなかコンテンツに身体を許せない。
ずっと昔、よく知らないライブイベントに連れて行かれた時のことを、たまに思い出す。その音楽はどこがどのように良いのか、どう楽しめばいいのか、音楽を楽しむとは具体的に何をすればいいのか……いまよりも固かったわたしの足は、いまよりもずっと固かった脳の処理を待ち続けていた。最前列まで連れて行ってくれたのは善意だろうけど、わたしは最後までその善意に応えることができなかった。
音楽を楽しむとは?判断を保留して「よい」と仮定して動くには?自分の感情を「楽しい」と決めつけるには?いまでも結局わからないし、わたしは音楽など作ってはいけないのかもしれない。他にできることなどないから音楽を作るし、そのために心身の動きについて考える。ときにはDJもするし演奏もする。でも、身を任せることや、曖昧さが怖い。
いまのわたしは恵まれているし、ずるい。こういった、文化に対する孤立感を文章にしたら、誰かしらは理解を示してくれると知ってしまっている。「わかりあえないもどかしさ」をわかってくれる人がいると知っていながら、これをアウトプットすることで自分を"表現"し、あわよくば金銭まで得ようとしている。
音楽をしないといけないけど、大きな音は怖い。音楽が辛うじてできているだけで、他には何もしたくない。だから、一旦「音楽は楽しい」と仮定して、脳で考えた創作物が他人の身体を踊らせることは可能なのかを試している。